未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。
実際の事件・実在の人物はどう描かれたか?
『疑惑のチャンピオン』という映画の特徴は、なんといっても実際の事件が実在の人物の実名とともに描かれているという点。そして、それがこの数年以内に起こったことであり、時の洗礼を受けて評価が固まった出来事ではなく、むしろある意味ではニュースに近い情報であるという点です。この点では、たとえばFacebookのマーク・ザッカーバーグを描いた『ソーシャル・ネットワーク』(2010)と比較することができるでしょう。
『疑惑のチャンピオン』が『ソーシャル・ネットワーク』と異なる点は、描く対象が大事件であり、社会的に糾弾される人物であるという点です。マーク・ザッカーバーグは映画に対して感想や評価を述べることができますが(実際それは世間に伝わっています)、ランス・アームストロングにそれは不可能であるか、あるいは機会があるとしても非常に限られたものでしょう。つまりこの映画は、ランスの罪を審らかに描くものでなければならないのと同時に、それが実在の人物への私刑に繋がる可能性があることもしっかり考慮して作られねばならなかったのです。
そこで、この映画ではとにかく事実が丁寧に描かれます。原作であるデイヴィッド・ウォルシュ(映画に登場した記者の彼です)による著作 ”Seven Deadly Sins: My Pursuit of Lance Armstrong” をなぞることはもちろん、2012年のUSADA(全米アンチドーピング機関)による調査報告書に記された事実を丹念に描いていきます。それはスピーディーで、湿っぽい感情の描写のようなものはほとんど差し挟まれません。
でもそれだけでは、「記録映画を模したただの再現VTR」のようになってしまいます。この作品では、ランス個人を淡々と描くことと対照的に、彼をめぐる出来事や周囲の人々などそれ以外の部分を鮮やかに描くことにより、映画としての表現を成り立たせていました。
フィジカルな共感の成果
冒頭、山岳地帯をものすごいスピードで駆け下りる様子が、主にライダーの後方からの視点で(臨場感が伝わるように)描かれます。私もそうですが、自転車競技になじみのない人は「こんなにスリリングなものなのか」と驚き、緊張感とともに心臓の鼓動が高まったことでしょう。ひとつ間違えばあっという間に谷底に転落するような状況。ドーピングの事実をひた隠しにしながらスターとしてのキャリアを突っ走ることになるランスの状況を暗示しています。
のっけからのこのパンチに加え、観る者の息が苦しくなるような描写が地味に散りばめられていきます。ハードながん治療の模様、何度も繰り返される注射の針先、限界まで体を追い込むトレーニング、過酷なレース本番の映像など。つまり、心理描写によって観客の心理を動かそうとするのではなく、フィジカルな共感を通じて観客の心を揺さぶりにくるのです。ぜいぜいと息を切らす人を見ると自分まで息苦しいような気分になるとか、注射の場面を見ると我がことのように「痛っ」と感じるということです。
ランス(ベン・フォスター)は基本的にブレません。過酷な状況がどれだけ続いても、弱気になったり投げやりになったりという姿を見せません。「勝ちたい、勝つことがすべて」という、ただただ強靭な意志の力だけを一貫して感じさせます。観客はフィジカルな共感を抱いたうえで、それにも関わらずブレないランスの姿を見ます。それにより、ランス自身は決して派手な感情表現をしていないのにもかかわらず、なにか強烈で底知れない存在感のようなものが立ち現れてきます。
ただし、ベン・フォスターはただ単に派手な感情表現をしていないのではありません。彼はランスとして過酷な状況に立ち向かったうえで、それらを飲み込んで平然としています。だからこそ、彼がドーピングという不正をしている姿がまざまざと描かれるのにもかかわらず、詐欺師・小悪党といった印象が出てきません。もっと大きな何かに取り憑かれているのだということが示唆されます。
ランスの内面はどこに描かれたか?
ランスの心情が直接、表面的に(わかりやすく)描かれる場面は、数えるほどと言っていいでしょう。もっとも印象に残るのは、一度引退した後で競技に舞い戻り、ツール・ド・フランスで3着になった場面です。がんの治療を乗り越え、不正薬物の使用(とそれに伴う肉体の負担)も辞さず、なりふり構わず勝利だけを求めてきた彼の敗北。優勝したアルベルト・コンタドールには屈辱的なことを言われてしまいます。ランスは「3位か」と目に涙を浮かべます。
印象的なこの場面ですが、彼の涙はただ悔しさのみから来たもののようには見えませんでした。どこかしら安堵の表情にも見えます。つまり、勝利だけを目指しそれを掴んできた彼にとって、その戦いに決着をつけるのは敗北以外にないのです。そのために、死に場所を求めて復帰したのでしょうか。「ドーピングをしても勝てない」という問答無用の敗北が、彼の人生の区切りのためには必要だったのかもしれません。
しかし、彼の表向きのキャリアに決着が着いても、その裏にあった不正には決着は着いていません。結局、直接的に彼の首を絞めたのはこの復帰でした。彼が不正に引き込み、ランス不在のツール・ド・フランスで優勝するもドーピングが発覚してそれを剥奪された、元チームメイトのフロイド・ランディス(ジェシー・プレモンス)。復帰を期す彼の頼みをランスははねつけます。ずっと自分を支えてきてくれた彼に対して、あまりにも酷い仕打ちです。フロイドの「なぜ自分だけが」という思いは、ランスに対する憎悪へと変わり、そして告発に至るのです。
他の登場人物がランスを描いた
ランスの人物造形が派手な感情表現によって描かれなかったことは前述の通りですが、ランスに対する他の登場人物については、かなりよく描かれています。前の項で述べたフロイドもその一人。でもそれだけではありません。たとえばランスの不正を糾弾しようと駆け回る、原作の著者であるデイヴィッド・ウォルシュ(クリス・オダウド)です。
ウォルシュは、ランスの糾弾において非常な執着心を見せます。周囲の人々は、ほとんど神聖視されているランスに対して、合理的に見て怪しい部分があったとしてもそれを直視しようとしません。それに対してウォルシュは、自分の周囲から人が離れ訴訟沙汰になろうとも、ジャーナリストとして断固不正を見過ごそうとはしません。ランスは不正も辞さずに勝利に執着し、ウォルシュは不正を許さず告発に執着します。二人はいわば合わせ鏡のようになっています。
そのほかにも、ランスのドーピングを支えた専門家として、フェラーリ医師(ギヨーム・カネ)という存在が登場します。彼の医師としての優秀さと、倫理観のタガの外れっぷりは、そのいかにも怪しい奇妙な雰囲気とともにしっかりと描かれます。そして、躊躇なくこのような人物の力を借りるという点において、間接的にランスの狂った倫理観、あるいは倫理の縛りのようなものを軽く超越するような勝利への異常な渇望が示されています。
このように、周囲の人間が鮮やかに表現されることが、劇中におけるランスの人物形成においてとても有効に働いていました。実在の人物、最近起こった実際の出来事を映画の物語に落とし込むうえで、まさにバランス感覚の働いた適切な演出だったと言えるでしょう。
なお、その他の演出もいろいろと工夫されています。人物が登場するたびにいちいち名前が紹介されることで、観客の意識は「これは実在の人物である・実話なのだ」というところに向けられます。それから、ランスの状況や心情を象徴するかのように音楽もうまく配されていました。若くイケイケだった頃にはRamones "Britzkrieg Bop”、「さあ行こう、奴らに後ろから一撃ブチ込んでやろうぜ」という曲。終盤ではRadiohead “No Surprises”、「驚きも問題も特別な出来事も何もなく、静かな暮らしを生きたいんだ」という曲です。
蛇足(その他の下世話な話)
性的なシーンもほぼなく、食事のシーンもあまりありません。ただ少し気になったのは、ランスは精巣がんのため睾丸の摘出手術を受けていますが、それにもかかわらず後に結婚後子どもをもうけているんですよね。確かここの説明がなかったので少し引っかかっていたのですが、史実を調べたところ、ランスは冷凍保存していた精子を人工授精させることによって子どもを作ることができた、ということです。
このように、手術などによって生殖機能が失われることがわかっており、本人に子どもを作りたいという意思がある場合は、予め卵子や精子を凍結保存しておくことができます。現代医学において、このような処置を行うのは割と一般的なことになっています。映画の中で説明がなかったのも、このような状況の変化(わざわざしっかり説明するまでもない)によるものなのかもしれません。
(でも、後に別の女性との間に「自然妊娠」で子どもを授かったようですね。彼の生殖機能は完全に失われたわけではなかったのでしょう)
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