罪と罰そして真の恐ろしさ - 淵に立つ(2016)レビューと解説(ネタバレあり)





未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

家族+他者の物語、他者をなぜ受け入れるのか?

「家族に他者が入り込んで何かが起こる」という物語は、よく見られるものです。日本の有名な作品では、たとえば森田芳光監督の『家族ゲーム』(1983)、『淵に立つ』と同じく2016年公開の作品でも黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』などが思い浮かびます。

そうした古今の作品群の中でも、イタリア映画『テオレマ』(1968)は『淵に立つ』を語るにあたって参照するべき作品といえるでしょう。あるいは、実際に参考にされていたのかもしれません。この映画でも、他者を受け入れることによって家族が崩壊へと追い込まれていきます。しかし、「受け入れること」が単に過ちであったと断ずることは難しいのです。

その背景には、キリスト教における「歓待」という行為の意味があります。これは、単に他者に対して親切にし愛を与えるのはよいことだ、というだけのことではありません。他者を受け入れることは自らの中に他者性を認め、それに向き合うこととつながるのです。その意味でリスキーであり、なおかつ「試される」行為なのです。

こうしたモチーフ上の意識が深田晃司監督にあったのは、恐らく間違いのないことでしょう。歓待といえば思い出されるのは、2010年の深田監督作品『歓待』です。家族をめぐる設定は一定程度、今回の『淵に立つ』と共通しています。ちなみに、古舘寛治はこちらにも出演しています。


八坂はどのように夫婦を「繋いだ」か?

利雄(古舘寛治)が八坂(浅野忠信)を「受け入れた」のは、まさに自らが試される「赦しを乞う行為」でした。それは八坂が「大げさだな」と笑った、再会の場面で利雄が深々と頭を下げる様子などに象徴されています。過去の犯罪で長きに渡り収監されていた八坂に対し、共犯者であった利雄は罪に問われることもなく家族を作って暮らしていました。八坂は決して利雄のことを口外せず、いわば利雄は八坂に守られる形となったのです。

一方、八坂に対する利雄の妻・章江(筒井真理子)の姿勢は正反対のものです。つまり、彼女は逆に八坂のことを「赦す」立場にあるのです。娘の蛍(篠川桃音)とも打ち解け、ある程度関係性が和らいだところで、八坂は章江に自らの罪を「告白」します。それに対して章江は、恐怖を覚えるというよりも、むしろ惹かれていきます。大きな罪人を「赦す」機会というのは、彼女の信仰に照らしてある種「魅力的なこと」だったのでしょう。そしてそれは八坂という人物自身を魅力的に見せ、男女という意味合いにおいて彼女は八坂と接近します。

利雄は八坂に赦しを乞い、章江は八坂を赦す、という構造がここに成り立っています。それまでコミュニケーション不全であった二人が、八坂を媒介として間接的に繋がりつつあるという感じです。「崩壊した家族が、他者の介入によって回復する」という物語はよく見られるものです。この映画もほんの一瞬、そのような気配を見せます。しかしそう上手くは進みません。それは恐らく、この構造自体にいくつもの罪が含まれているからです。


利雄の罪とは、章江の罪とは?

ここでいう利雄の罪とは、かつて八坂の共犯者として犯した罪ではありません。その咎を八坂のみに負わせたことの贖罪の中で、家族を差し出しているという点です。八坂に職を与え、部屋を与えということならばまだしも、事実上彼は妻をも差し出しています。二人の関係を怪しむ素振りが眼差しの演技で表現されていますし、8年後の会話でも、彼は八坂と章江の関係について気づいていたということを述べています。つまり黙認していたわけで、積極的に差し出したのではないにせよ、これは章江を贖罪のための道具として用いたと言ってもよい態度です。

章江の罪としては、もちろん八坂との関係が挙げられますが、それ以上にその根源にある思いこそが重要でしょう。それは、八坂を自分が「赦す」という傲慢さです。過去の八坂の罪について章江は無関係です(この時点では利雄が関係していたことも認識していません)から、言わば完全なる第三者です。被害者でもなければ、その家族でもありません。そして「クリスチャンらしい行いを達成するため」に彼女が八坂に見せる興味は、非常に俗っぽくいやらしいものです。

それは、八坂が被害者遺族に宛てて書く謝罪の手紙を読みたがる場面によく現れています。読み終わった後の感想として、八坂の達筆を褒めることでお茶を濁すしかできないという点にも、彼女の「赦すこと」における覚悟の浅さが表現されています。


八坂の何が恐ろしいか、彼の「悪魔の一手」とは?

八坂という男は、突然現れてあっという間に家族の懐に入り込み、そして大きな傷を残して去っていきます。しかもその過程の中、物腰は常に丁寧で、仕事の作業時以外はいつもワイシャツをぱりっと着込み、「きちんとした格好」をしています。彼が事件を起こすまで、彼に対して不気味さと同時に「本当にいい人なのかもしれない」という思いがちらつき、揺れていた方は少なくないのではないでしょうか。私もその一人です。

しかし振り返ってみると、八坂は本当に恐ろしい男でした。彼の残していった結果ももちろん恐ろしいのですが、それ以前に、彼は前項に挙げた利雄や章江の罪について恐らくはすべて見抜いていたのです。

登場時からひたすら丁寧な物腰だった八坂が初めて豹変を見せるのが、川遊びの場面、利雄と二人でいるときです。まず彼は「自分は刑務所で長い期間服役してきたのに、なぜお前は妻も子供もいてこんなふうに暮らしているのだ」という内容を乱暴な口調で言います。これだけならばある種わかりやすいのですが、その後「冗談だよ」という感じで相好を崩し、「お前が思っていることを言っただけだ」ということを言います。これはつまり、「お前が『八坂はこんな風に思っているのでは』と恐れていることを知っているぞ」というメッセージです。これは最初の台詞をシンプルな一人称として言うよりも、遥かに遥かに恐ろしいものです。

八坂は実際、利雄がどのような思いで贖罪しようとしているのかを理解しています。その上で、この直後に章江に手を出します。これは単に、利雄から章江を奪う・寝取るといったありがちな「復讐」ではありません。これによって、利雄にも章江にも同時に罪を犯させ背負わせることができるという、いわば悪魔の一手なのです。

章江への接近においても、八坂は周到です。信仰こそが章江の隙だということを見抜き、何気ない会話の中でそれを探っています。特に、信仰のあり方についての「サル型かネコ型か」という話は興味深いところです。それぞれの赤ちゃんが母親に運ばれるとき、サルは母親にしがみつくのに対して、ネコは母親に全てを委ねます。八坂に言わせれば章江の信仰はネコ型、つまり信仰に全てを委ね、いわば「全ては神様の思し召し」感が強いということです。

この辺りの会話から、自分の「罪の告白」が彼女の信仰を刺激し、それによって接近できるだろうことを八坂は感じていたでしょう。告白の場面でも、彼は自らの頬を叩いてみせます。頬を張るというのは、キリスト教的には侮辱・軽蔑を意味すると考えられます。つまり罪人たる自らを強調することで、章江の赦す主体としての傲慢さを引き出しています。誰しもが罪の支配下にあるということ、誰しも罪を犯す可能性を秘めているのだという原則から章江は離れてしまいます。その後悲劇が起こり、そして8年後の場面で章江が自分の頬を叩くくだりに繋がっていきます。

さらに恐ろしいのは、こうした会話の中でも、八坂はべつに何か嘘をついたり過度に誇張したりしていなかったのかもしれない、という点です。実際、明らかな嘘や誇張はどこにも描かれていません。ある種の意図は働かせていたとしても、嘘のないありのままの言動が人に影響して罪を犯させるのだとしたら、それはまさに悪魔です。

ところで、脚本の面で意識されたかは微妙なところですが、あのネコのモチーフには気になる部分があります。それは冒頭の会話で登場した、ある種のクモには子グモが母グモを食べる習性がある、という話との関連です。つまりこのクモの場合、親を犠牲にして子が生き延びるのです。一方で、母ネコが産んだばかりの自分の子を食べてしまうことがある(つまり子を犠牲にする)ことはよく知られています。果たして八坂のセリフには、「お前は子どもを犠牲にすることになるのだ」という含みがあったのでしょうか、なかったのでしょうか。


八坂の罪についての奇妙な点とは?

かつて罪を犯した者として登場し、新たに罪を犯して消えていく存在として八坂は描かれています。しかしこの描写には、非常に気になる奇妙な点があります。それは、八坂の罪そのものが直接的には全く描かれず、また細かな説明もされないということです。

考えてみましょう。過去に八坂が(利雄を共犯者として)犯したという犯罪は殺人です。八坂自身の口から、そのように語られます。ただ、具体的にどのような事情でどんな人物をどのように殺めたのか、ということは終ぞ語られません。利雄もただ「足を押さえていただけ」と語るのみです。

そして、蛍(8年後・真広佳奈)が重度の障害を持つに至る事件ですが、ここでも八坂が何かしらの傷害を与えたらしきことが示唆されていますが、その場面は直接描かれません。血を流して蛍が横たわり、その横に八坂が立っているだけです。

単なる「効果的な演出」というのではなく、ここで感じるのは「果たして八坂は本当に罪を犯したのか?」ということです。これは決して突飛な発想ではありません。というのも、この映画ではその後に「やっていないことをやったと勘違いされて責めを負う」という場面が登場するからです。しかもそれをこうむるのは、八坂の息子である孝司(太賀)です。

ここで述べたいのは、「謎解き」のようなことではありません。「もしかするとそうかもしれない」という想像の余地が残されていること自体が重要なのです。もし蛍の一件はフェンスから落ちたとか、その種の事故だったとしたら? 彼女はもはやそれを伝えることができません。あるいは、過去の殺人を八坂が行っていなかったのだとしたら? それどころか、利雄が一人で犯した罪を八坂が被ったのだとしたら? その可能性の存在自体が非常に恐ろしいものです。


「語られないこと」は何を語ったのか?

このように、想像の余地そのものがしっかりとした表現となっているところが、『淵に立つ』やその他の深田監督作品の優れた点のひとつです。実際、この映画は非常にセリフ数が少なく、それにもかかわらず、というか、だからこそ饒舌な映画になっています。いい加減な姿勢で観客に投げてしまうというのではなく、むしろ演技の面でも演出の面でも非常に緻密な表現が積み重ねられていながら、それゆえに観る者の「根拠ある解釈」の幅が非常に広くなっているのです。

たとえば、名優・浅野忠信による八坂の人物造形は見事なものです。彼が服役していたという事実は、「告白」の場面までは、会話の断片から示唆されるのみです。しかし、日常生活のワイシャツ姿と仕事の際の作業着姿のみという点は、まるで服役囚の舎房衣と工場衣です。丁寧な話し方も、まるで刑務官に対するときの会話のようです。

そして、それらが剥ぎ取られた下にあるシャツの「赤」は、まさに彼の暴力性を象徴しています。8年後の家にも所々「赤」が配され、未だに八坂によって家族が支配されていることが表現されています。それから、「赤いドレス」を作り続けていたのは他ならぬ章江であり、ついにそれが完成して蛍がそれを着たところで、悲劇的な出来事が起こるわけです。ちなみにキリスト教的には、赤は殉教者の血であり、それによって成り立つ愛を表していると考えられるでしょう。

また、8年間という時の流れは一瞬で描かれますが、その重みは様々な部分で静かに表現されています。衝撃的な蛍の姿はもちろんですが、精神的な地獄の中で彼女の世話を続けてきた章江のやつれ方も凄まじいものです。当たり前のようにこれを表現する筒井真理子という女優さんは大変な方です。何も言葉にしなくとも、彼女が何を後悔し、何を恨んで生きてきたかということが表れているのです。


ラストシーンに描かれた恐ろしさとは?

解釈の幅が広いということは、解釈が難しいということにも繋がります。それが極点に達するのが最後の場面です。八坂の影を追うものの結局彼は見つからず、その帰りに章江は蛍を連れて姿を消します。利雄と孝司が発見したとき、章江は蛍とともに橋の「淵に立」ち、身投げをしようとしています。そして八坂の幻影に促されるようにして、川へ飛び込みます。

章江の抱えている絶望は、想像を絶するものです。たとえば、あの日彼女が八坂に体を許していれば、彼が娘を傷つけることはなかったかもしれません。しかし彼女は、罪を避けることで罪を背負うことになってしまいました。そして夫は、蛍の有り様自体を自分たち夫婦に対する罰であるとして、それを共有することで「夫婦になれた」と言います。彼女はその言葉に反発し夫をなじりますが、しかし裏腹に、それは事実でもあるのです。それは地獄のような状況です。ついに八坂の幻影を振り切ることはできず、おそらくもう信仰を棄ててしまったであろう彼女は、娘との心中を試みるのです。

利雄と孝司はすぐに川に入り、二人を助けにかかります。なんとか川から引き上げることができますが、章江と蛍、そして孝司が意識不明の状態になってしまいます。利雄は心臓マッサージを施し、蘇生を試みます。そして、少なくとも章江が息を吹き返したということは描かれます。

ここで最後の最後に、非常に恐ろしい描写が配置されていたことに気づかれたでしょうか。それは、利雄が蘇生させようとする順番です。これが、まず章江、次に孝司、そして蛍なのです。この3人の中で「娘が最後」ということは、通常考えられるでしょうか。他人である孝司はもちろん、妻よりも優先されて何も不思議ではありません。それどころか、「娘が最初」というのがもっとも自然でしょう。しかし彼は、意識してなのか無意識になのか、重度の障害を抱える「お荷物」の娘を後回しにするのです。かつて贖罪のために妻を使ったことにも似た罪の構造が、ここにあります。

「結局どうなったのか」が描かれることはありません。恐らく章江は助かったことでしょう。孝司と蛍はどうなったのでしょうか。どちらかが、あるいはどちらも亡くなったとして、それは夫妻に新たな罪をもたらすことになります。かといって、助かったとしてもその先に希望は見えません。いずれにしても、この先の人生は地獄です。私がこの結末から感じたのは、人は犯した罪から逃れることはできず、逃れようとすれば新たな罪が覆いかぶさるのみだ、ということです。

ただ、一度あきらめた利雄が蘇生の試みを再開させるという描写には、曖昧ながらもうひとつのメッセージを読み取ることができました。それは、「地獄でもなんでも、生きることを肯定する」ということでした。それは何かしらの希望めいたものではありません。もっとぐちゃぐちゃの、どうしようもない人間の業そのものです。古舘寛治によるこの上なく丁寧な演技の積み重ねで造形されてきた利雄という人物は、人の形をした業そのもののようにして、川べりに横たわっていました。


蛇足(その他の下世話な話)

そもそも家族の食卓以外にはあまり食事シーンが登場しないのですが、ベストの食事シーンは、やはり八坂が加わった後の4人での朝食シーンでしょう。あの場面、彼は利雄と違って礼儀正しく母娘の祈りの儀式を待ち、それから食事を開始します。そして、まるで囚人のように凄まじい勢いで食べ終わります。あの場面、粗野な八坂の食べ方が家族をかき乱すような不安感を醸し出しています。それに対抗するように・あるいは引きずられるようにして、章江がかちゃかちゃと食器の音を誇張させていた、ように感じたのですが、どうだったのでしょう(少々記憶に自信がありません)。


しっかりとしたベッドシーンは登場しません。しかし、川のほとりで初めて八坂が章江にキスをする場面には、妙に底の深いエロスというか淫靡さがありました。下手な全裸のベッドシーンなどよりよほど上です。というわけで、ベッドシーンとは異なるけれど、ベストはここ。 

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