もう一度深く強く信じよう - 怒り(2016)レビューと解説(ネタバレあり)




未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

3人の男が突然現れるということ

「なぜ突然3人の男が現れるのか?」というと妙な問いですが、素性の明らかでない人物が突然ある個人・コミュニティと関わりを持ち始めて定着していく、ということがいかにして起こり得るのか、という問題です。この映画はそれをとても自然に描いていますが、そこにはどのような背景があったのでしょう。

破綻せずに日常を送る人々の暮らしは、それ自体一応完結しています。たとえば平和な田舎町で漁協に勤める生活、エリートサラリーマンとしての東京の生活。でも、それらには他者が入り込む隙間もあります。心配事であったり、寂しさであったり。大人になって人生を長く過ごせば、日常の物語はしっかりと固定化していく一方で、そうした隙もまた増えていきます。

たとえば、洋平(渡辺謙)にとっては家出した娘・愛子(宮崎あおい)への心配。優馬(妻夫木聡)にとっては、もう長くない母親への思いとゲイとしての生き難さ、漠然とした不満足と焦燥。それらを埋めてくれる存在は、むしろ前歴不詳の謎の存在のほうがよいのかもしれません。「今・ここ」で満たされることが大切なのです。

優馬にとっての直人(綾野剛)はそのものズバリ、恋人です。そして洋平にとっての田代(松山ケンイチ)も、何か謎の多い男だけれど「悪い人間ではなさそうだし」目をかけてやろう、という存在でしょう。後にバイトの身分から正社員にさせようとまで気にかけていたあたり、息子のように思う感情が芽生えていたのかもしれません。ふらりと現れた彼の面倒を見ることは、家出中の娘が心配でならない気持ちを紛らわせることになっていたに違いありません。その関係性は、帰ってきた愛子が彼と恋人関係になることで、より濃いものとなります。

沖縄での出会いは少しタイプが異なりますが、やはり似ています。泉(広瀬すず)と辰哉(佐久本宝)はこれから人生の物語を構築していく高校生。でもそれぞれに、沖縄の開放感ある景色とは裏腹に、ある種の行き詰まり・閉塞感のようなものを感じています。特に泉は、男性関係にだらしない母の起こしたトラブルで逃げるように沖縄に渡ってきており、未来に向けてのよすがのようなものを求めていたのかもしれません。そんな中で二人は、世のシステムからまったく自由に生きているかのようなバックパッカー風の男・田中(森山未來)に出会います。話してみれば気さくな、頼りになるお兄さんのような雰囲気です。彼の存在に興味を持ち親しみを覚えるのも、自然なことでしょう。

何かしらの空虚さの埋め合わせとして、謎の存在であるがゆえに、3人の男たちは人びとの暮らしにぴたりと嵌ったように見えます。でも、彼らの存在が当たり前の日常になってしまえば、謎は謎のままでいられません。誰かのことが大切になれば、その人のことを知りたくなりますし、知らずにやっていくことはできません。

普通はその過程は、ゆるやかに、日常的なコミュニケーションの中で進んでいくものでしょう。ところが、そこに手榴弾のように投げ込まれてきたのが、あの殺人犯の指名手配写真です。目の前に転がっているそれが本当に爆弾なのか、それともただの石ころなのか。確かめたいけれど怖くて触れられないのです。


犯人はわかりやすかったか?

この映画を鑑賞したみなさんにとって、犯人はわかりやすいものだったのでしょうか、という点が気になるところです。私は「犯人は誰か」という点にあまり強く意識を置いて観ていなかったということもあり、かなり終盤になるまで気づくことができませんでした。実際に起こった千葉の英国人女性殺人事件を思わせる部分がありますから(原作者の吉田修一も「念頭にあった」と述べています)、それとのリンクで田中が怪しいと感じていた人も多いかもしれません。ただし、吉田は原作連載の途中まで犯人を明確に決めていなかったことを明かしています。ですから、実際の事件が「犯人当て」のヒントになったとしても、それはあくまで偶然といえるでしょう。

それにしても、綾野剛・松山ケンイチ・森山未來という3人の役者が揃ったのは非常に大きなことでした。彼らは卓抜な演技者であると同時に、それぞれの顔立ちには何かしらの共通項を見出すことができます。その結果、画像加工の技術も手伝い、あの指名手配写真が生み出されたのでしょう。あなたには、あの写真が3人のうちの誰に見えましたか? ある場面を見ている時には田中に見えるし、別の場面では直人に、いややはり田代かも、という揺らぎを体感した人は少なくないでしょう。

その「見え方」の揺らぎは、なにも見た目によるものだけではありません。つまり、愛子や洋平にはあれが田代に見えてしまうし、優馬にはあれが直人に見えてしまうのです。そして、こうした周囲の人びとにシンパシーを感じることで、観客の「見え方」もまた揺さぶられてしまうのです。この構造は、俳優たちの演技に裏打ちされて、この映画における非常に大きな仕掛けとなっています。同時に、小説を映画化することの醍醐味を体現しています(同時に、文字だけでこれを表現した原作小説もまた素晴らしいのです)。


沖縄の物語以外に「怒り」はなかったのか?

冒頭で示される、殺人現場に残された「怒」という血文字は衝撃的なものです。動機も不明なこの通り魔的な犯行がなぜ行われたのか、ということを抽象的に示唆しています。いったいそれは何に対するどのような「怒り」なのだろうか、という疑問が通奏低音のようにセットされます。どうやら容疑者が3人なので、観る者は彼らの中に何かしらの「怒り」を発見しようとどこか意識することになります。しかしそれは、なかなか顕在化してきません。直人は控えめで穏やかな青年だし、田代は暗く無口で何を考えているかわからない、そして田中は気さくで明るいお兄ちゃんです。

この物語の特徴的な点は、結局のところ東京と千葉の物語は殺人事件には無関係であった、ということです。しかし、ではこの二つは「犯人当て」を盛り上げるためのカモフラージュに過ぎなかったのかといえば、もちろんそんなことはありません。これらには、「大切な人への疑い」における、不安とも焦りとも言えるような、非常に漠然とした負のことがらが湛えられています。いわば、今後「悲しみ」に変わるかもしれないし、「後悔」に変わるかもしれないし、そして「怒り」に変わるかもしれない「感情の原材料」。直人や田代が無実であったという事実が明らかになり、それは優馬の中で、そして愛子・洋平の中で爆発します。しかし、もし「直人が犯人だった」「田代が犯人だった」ということであれば、その原材料はまた異なる感情に昇華していたことでしょう。「怒り」に変わっていたかもしれません。

つまり、結果として事件に無関係だった二つの物語は、「いつか怒りに変わるかもしれない暗く不確かな思い」を描いていたといえます。真実を知り感情を爆発させる愛子と洋平を見る若手刑事(三浦貴大)の表情が印象的です。「タレコミを調べたが空振りだった、無駄足を踏んで残念だ」という顔ではありません。「無関係だったが、目の前のこの光景もまた事件の一部なのだ」という顔です。


なぜ彼は犯人を刺したのか?

この映画の中では、全体を取り巻く猟奇殺人事件のほかにというか、物語上ではその中に包含されるという形で、もう二つの事件が起こっています。ひとつは泉のレイプ事件です。殺人事件とはまったく無関係なところで、一人の少女を致命的に傷つける大事件が起こっているわけです。それは彼女のみならず、辰哉に重くのしかかります。自分のせいで泉が襲われ、しかもそれを助けられなかったこと。自分だけが事件を知っていて、「誰にも言わないで」と泉に言われたこと。辰哉の中にもまた「暗く不確かな思い」が渦巻きます。

結局、この物語で「信じた人に裏切られる」という決定的な経験をしたのは辰哉だけといえるのかもしれません。彼は背負いきれない悩みについて、遠回しな形でありながら田中に相談をします。彼は辰哉に寄り添うような態度を見せてくれました。しかし最後の最後にそれは裏切られます。そして「暗く不確かな思い」が「怒り」に変わったのでしょうか、「泉に起きたことは誰にも知られてはならない」という思いから田中を刺すことになります。これがもうひとつの事件です。彼はそもそもの殺人事件については何も認識していません。


この犯人とは、「怒り」とはいったい何だったのか?

いったい田中という男は何だったのか、という問題は難解です。これについて細かく言及されるのは、田中(というのは偽名で、本名は山神)を知る男として終盤に登場する早川が取り調べを受ける場面。このあたりで、実際に事件が起こった経緯も明かされます。鬱屈した暮らしの中で溜め込んだ怒りが、たまたま臨界に達してしまったのが被害者の目前だった、ということ。しかし「殺害後に被害者を生き返らせようと試みた」などのエピソードは(現実の事件でも聞いたことのある話ですが)より山神を理解することを困難にしてくれます。正直なところ、もう一度注意深く映画を鑑賞してみなければうまく語れそうにありません。

いずれにしても、「怒り」と名のつく感情は、「悲しみ」とか「後悔」などの他の負の感情と出どころを同じくし、ある出来事によってその形をとるようになる、ひとつの感情の極点・爆発といえるものだということを感じました。それは、『悪人(2010)』において、人々の間をたらい回しにされる悪意がある人のところで殺意として爆発する、という様が描かれたこととも連なってくるように思えます。

そして、そうした「暗く不確かな思い」を解消できるのは、いたわりであり愛情、そして人を信じるという思いに他ならないということもしっかりと描かれています。千葉の物語で、愛子と洋平によって「もう一度、深く強く信じるのだ」ということが描かれたのは救いであり、光明です。


「日本代表キャスト」の凄み

原作者の吉田修一からも「オールスターキャストを」という要望があったようですが、まさに名実ともにオールスターでした。

東京の物語。3つのうち、もっとも静謐な雰囲気のある物語です。ゲイのカップルを演じるために、妻夫木聡と綾野剛は実際に同居生活を行い役作りをしたとのことですが、ごく自然な空気感が醸成されていました。『マイ・バック・ページ』(2011)など出演作を見るたびに毎回思うのですが、「クライマックスや終盤で感情が溢れ出す場面」における妻夫木の演技には非常に立体感があります。綾野の儚く消えていく雰囲気も繊細に表現されていました。

千葉の物語。宮崎あおいによる愛子の人物造形は異様なほど優れていました。純粋すぎるほど純粋で裏表がなく、年齢に比べればあまりに挙動が幼く、明敏とはいえずいかにも騙されやすい女性。それゆえに歌舞伎町の風俗嬢としてボロボロになっていたところを、冒頭で父の洋平に助け出されるのですが、それでも連れ戻された彼女は無邪気に田代を信じます。しかし「無邪気に信じる」ことが「真剣に愛する」ことに変わるところで、つまり大人の女性へと変わるところで葛藤が生まれ、疑念が入り込んでくるのです。こんなものを、エキセントリックにならず、通り一遍の激情型にもならず、説得力をもって演じられる俳優は多くないでしょう。不器用ながらになんとか娘に寄り添おうとする洋平を演じる渡辺謙と合わせて、この父娘の名演なくして「怒り」を語ることはできません。

また沖縄においては、オーディションで大抜擢されたという佐久本宝の演技が光ります。単に「等身大の青年」を演じられる俳優は他にも多いでしょう。しかし等身大という枠組みの中に、しっかりとした辰哉という人物が組み立てられていました。それゆえ、そのキャパシティを超える事態が起こったときの演技にリアリティがあったのでしょう。また広瀬すずには、たとえ台詞回しや動きに拙い部分があったとしても、映っているだけで腰の座った奇妙な存在感があります。その理由は単に彼女がとんでもない美少女だから、というだけではないでしょう。いずれ宮崎あおいのようなレベルの女優になって欲しいと(あんまりしょうもない映画に出て消耗してくれないようにと)願います。

「感情表現が乏しく無口」でありながら最重要な容疑者の一人を演じきった松山ケンイチももちろん素晴らしいですし、森山未來も素晴らしかった。まだ田中(山神)という人物を消化しきれていないので、どこがどう素晴らしかったのかを説明できないのがもどかしいですが。


蛇足(その他の下世話な話)

まずはベスト食事シーン。これは、同棲を始めた愛子と田代が一緒に食べていたラーメンに一票。確かなんの飾り気もないインスタントラーメンだったように記憶していますが、「食べるものはなんでも二人一緒なら幸せ」という感じはまさに若い二人の同棲という感じで、いいですよね。もっともこの場面は、田代が殺人犯なのではないかと疑った洋平がその様子を外から伺う、という描かれ方をしているので、あまり微笑ましがっている場合ではありませんが。

それからベストベッドシーン。そもそもベッドシーン自体が多くありませんが、これはやはり、同居を始めたあとの優馬と直人(妻夫木聡・綾野剛)のものでしょう。一部の女性方がこれに「萌え」ているとの話もありますが、うむ、確かにものすごくナイーブで色気のある場面です。とはいえ、これ目当てで映画を観にいった人がストーリーの凄まじさにガツンと衝撃を受けたらいい、などと意地の悪いことを思ったりもしますが。いや、いい場面です。


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