日常の砂漠・退屈の地獄を突破せよ - ふきげんな過去(2016)レビューと解説(ネタバレあり)




未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

「結局なにが言いたかったの?」

鑑賞前の紹介記事でも触れたのですが、「結局なにが言いたかったの?」と聞きたがる方にはこの映画はまったく向きません。映画でも小説でも漫画でも、すぐにその種の疑問を呈する方がいますが、なにか根本的な考え違いをされているのだと思います。

なぜなら、これらの表現というのは基本的に「すごく抽象的な〈表現したいこと〉があって、それをいちばん伝わりやすいだろうという形に工夫したらこうなった」というものだからです。「言いたかったのはこれこれです」とただちに説明できるようなら、そんなものを作品にする必要はないのです。そして「うまく説明できないけど伝わる」ということはあるのです。

とはいえ、何かしら奇妙だったりシュールだったりするものを上っ面で面白がり、「わかってる」風の顔をすることも気にいりません。サブカル的欺瞞というか。そこで、この「ふきげんな過去」という奇妙な作品がいったい何であったのかをいろいろと考えてみます。


なぜ果子は不機嫌なのか?

この映画は「んーがー」みたいな果子(二階堂ふみ)のセリフから始まります。この言い方は、わりと彼女のゆるくてひりついた苛立ちが凝縮されていて良い感じです。観客は「え、なになに?」となります。そしてこのような「え、なになに?」感がずっと続いていく、というのがこの映画です。結局彼女は「運河」、自分が見ているのは海ではなく運河だ、と言っていることはすぐにわかるのですが。

なにもかも想像の範疇の出来事しか起こらない、だから日常が死ぬほど退屈だ、というのが果子の苛立ちの根源です。彼女には日課のようにしていることがあって、それは想像の外側を求めてのことです。ひとつは運河にワニを探すこと。もうひとつは喫茶店に行き、気になる妙な風体の男・康則(高良健吾)の様子を見ることです。でも彼女はワニなんかいないだろうと考えているし(ワニを探すというより、ワニがいないことを確認している)、男に声をかけるわけでもありません。

このような退屈な日常が描かれる序盤の部分がまずあります。そして、18年前に死んだはずの伯母の未来子(小泉今日子)が現れます。ここからが、堂々めぐりの日常に風穴が空いていく部分です。この映画を非常にざっくり分けると、この二つのパートで構成されているといえます。


無意味な会話の意味

このおかしな物語を鑑賞しているとき、私はなんとなく2種類の「矢印」のイメージを感じていました。ひとつは、「矢印」といわれて普通に想像するような、まっすぐの形をした矢印。もうひとつは、ぐるりと円を描いて先端とお尻がつながっている矢印です。この映画の中で起こる出来事はすべて、このふたつのうちどちらかの属性を持っている、という感じがします。

「円形の矢印」は、ぐるぐるとどこまでも進まない停滞です。果子が苛立っている退屈きわまりない日常は、まさにこのイメージです。どこにも辿り着かない堂々巡り。それは、あらゆる場面で繰り広げられる無意味そのもののような雰囲気のセリフのやりとりによって、よく表されています。

セリフというのはふつう、観客に何らかの情報を与えるために発せられます。物語の背景とか、設定についての説明とか、キャラクターの性格についてのあれこれとか、そういうものが込められているのが普通のセリフです。でもこの映画では、円形の矢印的グルグル感という雰囲気を生み出すために、ナンセンスな会話がひたすら繰り返されます。特に、「ものすごく疑問文が多いのに、それに対応するまともな回答のセリフがぜんぜん無い」あたりが実に投げっぱなしの空虚感を醸し出しています。

聞き逃してしまっても物語の筋を追うにはまったく困らないほど無意味だが、作品全体の空気感に対して重要な役割を担っている会話群。そういう意味では、まったく作風は異なりますが、「レザボア・ドッグス(1992)」「パルプ・フィクション(1994)」のようなクエンティン・タランティーノ作品を思わせるところが少しあります。


実はわかりやすい話、といえる部分もある

わけのわからない映画、という印象を与えがちに思えるこの作品ですが、実は結構、わかりやすい部分は恐ろしいほどわかりやすくできています。「ふきげんな過去」が「不機嫌な果子」と掛け言葉になっているのは誰がどう見ても明らかです。果子は過去の象徴ですし、未来子は未来の象徴です。そのまんまの名付けです(偶然かもしれませんが、未来子を演じるのが小泉「今日子」というのも面白いところです)。

過去というのは「すでに起こったこと、知っていること」であり、想像力の範疇を規定するものです。日常のすべてがその枠内にあるから、果子は退屈で不機嫌なわけです。では、退屈な果子に対して未来子はどうでしょうか。彼女は「孤独」です。知っていることばかりの過去は退屈で、知らないことばかりに囲まれる未来は孤独、というわけです。だから果子(過去)に会うためにひょっこり現れるのです。

はじめのうち、果子は自分が「過去」だと認識していません。だから、わりとわけもわからず苛ついています。でも未来子が登場することで、それに対して自分が「過去」であることがくっきりとし始めます。だから彼女の苛立ちはますます高まります。未来子(未来)に対して取っ組み合いの喧嘩をしたりもします。そして、それと同時に彼女の何かが変化します。


3人の冒険が意味するのは?

退屈から抜け出すためには、今の状態から円形の矢印のどこかの部分をぶち破って、どこかへ進んでいくためのまっすぐの矢印にしなければなりません。ぶち破るための破壊力を持った、たとえるなら爆弾のような何かが必要なのです。そして比喩ではなく、ほんとうに爆弾が出てきます。未来が「こっちに来なさい」と爆弾を提示するわけです。ちょっと梶井基次郎「檸檬」を連想しなくもありません。

爆弾を手に入れるための小さな旅の場面は、まさに「ぶち破る」ための冒険の過程です。ここはまったくの非リアリズム、ファンタジー的な世界観で描かれています。舟の上の場面などはとにかく美しいのですが、現実の北品川からは程遠い深い森の場面など、理屈での解釈を困難にさせます。

でもとにかく、この冒険から爆弾の爆発までの過程は「こちらからあちらへ」果子が過去から未来へ動き出すための通過儀礼のようなものだったのでしょう。未来子はまさに、未来へと招く案内人です。そして大怪我を負ってしまった可哀想なカナ(山田望叶)には「まだ早すぎた」ということだったのかもしれません。


果子はどうして笑ったのか?

ただし、「未来子とのわだかまりが解消して果子が未来に歩み出す」というような安直さはありません。未来から提示されることがらも、果子はかなり「想像の範疇」で処理していきます。遠くを見て「いいこと」を話す未来子は「むかつく」し、未来子の側に属している康則は「薄っぺらい」。自分が本当の母親だと未来子が明かしたときも、「あ、やっぱり」です(ある超有名大作映画シリーズには ”I am your father.”(私がお前の父なのだ)という超有名セリフが登場し、これが全世界に衝撃を与えたわけですが、完全にこの対極です。新しいタイプの「引用」「オマージュ」かもしれません)。さらに果子は挙げ句の果てに、犬の糞を先端に塗りたくった傘で未来子を刺す始末です。

何が何だかさっぱりわかりませんが、とにかく、果子は日常の退屈をぶち破る力をなんとなく手にしたものの、未来子のほうには断じて行かないのです。過去を抜け出したけれど未来の方にぶっ飛ぶわけでもない、ということはどういうことでしょうか。

最後の場面、本当に現れたワニが川っぺりに横たわり、人々が取り囲んでいます。果子はこれを眺めています。ところが、この時点では果子は顔色を変えません。物語のはじめには「想像力の外側」の象徴のような存在だったワニですが、これだけ奇妙なストーリーを経た上で、もうワニが登場することなど想定内なわけです。それは果子にとってのみならず、観客にとってもそうなのです。多くの人にとって、あれは大した驚きを呼ぶものとはいえなかったのではないでしょうか。

ところがその直後に、さらに水の中から何かが現れます。それが何なのかは具体的に描かれません。しかし果子はそれを見て、この映画における最初で最後の晴れやかな笑顔を見せます。「想像を超える何か」が「今・目の前に」現れたのだということがわかります。つまり、過去から抜け出し、未来に飛んでいくこともしなかった果子は、「今」に属する人になったのではないでしょうか。現れた何かは「今」の象徴です。「今」と「自分」がしっかりと噛み合った、だからこそのあの笑顔だったのでしょう。

……というあたりが、この奇妙な映画から私が感じた非常に抽象的な晴れやかさを、なんとかかんとか説明しようと努力した結果です。皆さんはどのように感じたでしょうか?


蛇足(その他の下世話な話)

ベスト食事シーン、というのもなかなか難しい作品です。豆料理、食べてはみたいのですが、具体的にどんなものなのかがほとんど説明されないので難しい。ただ、映画を鑑賞しながらなんとなく香りを感じることができたのは、しょっちゅう出てくる「家族総出で豆の皮をむく」シーンにおける「つまみ喰い」でした。


というわけで、本作のベスト食事シーンは「豆のつまみ食い」とします。 

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