愛を燃やして涙を乾かせ - 湯を沸かすほどの熱い愛(2016)レビューと解説(ネタバレあり)





未鑑賞の方は、ネタバレなしの作品紹介記事をご覧ください。

『湯を沸かすほどの熱い愛』の何が凄いか?

「余命わずかの母親」「蒸発した父親」「学校でいじめられる娘」。さらに「母親に捨てられる」「本当の母親じゃない」「母親と死別する」「ろう者(手話)」といった設定が次々登場。それでいて温かみとユーモアのあるホームドラマの要素があり、ロードムービーの要素もあり、しかもあっと驚く結末が待っている。

こんな映画を撮れと言われたら、9割9分の作り手は箸にも棒にもかからない駄作をひねり出してしまうことでしょう。とってつけたようなお涙頂戴、あるいはどんよりと陰鬱でどこにも辿り着かない悲劇になってしまうかもしれません。一昔前の、野島伸司氏脚本のテレビドラマにありそうな感じです(実はそんなに嫌いではありませんが)。

でも、『湯を沸かすほどの熱い愛』は違います。これほどある意味では今や「ありがち」な設定を全て生かしに生かして、何のてらいもなく鮮やかに物語が紡がれていくのです。それは、「設定」ではなく「人」が描かれているからに他なりません。単純なことのようですが、これは物語に必然性があり、演出に適切な抑制が利いており、なおかつ役者たちに地力がなければ達成できることではありません。だから、ありそうでなかなか見られない傑作といえるのです。


お母ちゃんの「やらなきゃいけないこと」は何だった?

映画序盤、最低限の説明やわずかな伏線が提示されながらも物語はかなりスピーディーに進み、お母ちゃんである双葉(宮沢りえ)はすぐに「余命2カ月」状態になります。ここからが話の本筋です。その残りわずかな命を彼女はどのように燃やしたのか。「やらなきゃいけないこと」とは何だったのか、ということです。

予告編では、安澄(杉咲花)の語りによって、これがわかりやすく箇条書き風に示されていました。「家出した父(オダギリジョー)を連れ戻し」「潰れかけの銭湯を再開」「弱い私を独り立ちさせる」。これは実に着々と達成されていきます。

お母ちゃんに雇われた探偵(駿河太郎)はなんだかおっとり・のんびりしている風で、探偵として有能なようにはあまり見えないのですが、一方でお父ちゃんもなかなかに抜けた部分のある性格をしているためか、とっとと捕獲されてしまいます。それにより銭湯も再開に向けて動き出します。そして最後の「安澄の独り立ち」。これが結構な大仕事です。


安澄の成長物語としての『湯を沸かすほどの熱い愛』

自分の余命が2カ月しかないと知らされたとき、お母ちゃんの胸に去来したのはもちろん、ひとり娘の安澄への心配でしょう。一瞬だけ落ち込んだ彼女が気を取り直したのも、安澄からの「おなか空いた」という電話からでした。彼女はまだ16歳。社会に出るどころか、学校の小さな社会の人間関係についてもこの世の終わりのように悩んでいます。自分が死んだあとにしっかり生きていけるのか、心配でならないことでしょう。

探偵まで雇って本腰を入れてお父ちゃんを探し出したのも、なにより安澄のためです。だらしなく頼りないお父ちゃんですが、自分がいなくなれば彼女にとっての親はお父ちゃんしかいないのです。また、銭湯も復活させなければ家計も立ち行かず、安澄は暮らしていけません。そして、それだけではありません。安澄に伝えなければならないことが山ほどあります。

恐らくは、ゆっくりと時間をかけて安澄の成長を見ながら伝えていこうと考えていただろうことを、お母ちゃんは怒涛の勢いで伝えていきます。なにしろ2カ月しかないのです。まず、かわいい下着を買い与えます(お父ちゃんには任せられない、10代の女の子に対しての大仕事です)。いじめに立ち向かうよう背中を押します。そして、安澄の「本当のお母さん」についてのこと。

安澄はそれにしっかり応えていきます。この映画は、残りわずかな命を燃やすお母ちゃんの愛の物語であるのと同時に、その心を受け継ぐ安澄の成長物語でもあるのです。


1対1の人間関係はどう描写された?

安澄が成長していくにあたって重要だったのは、お父ちゃんが帰ってきたこともそうですが、それ以上に彼が一緒に連れてきた鮎子の存在です。二人暮らしが四人家族になるというのは、単に人数が2倍になったという話ではありません。これまでは「1対1の人間関係」が「お母ちゃんと安澄」の1つしかありませんでした。その頃の彼女は本当に幼く、お母ちゃんに守られる子どもでしかありませんでした。

でも四人家族になり、家族の中にある「1対1の人間関係」は6通りにも増えます。そのうち3つは「安澄と誰か」です。言わば3人の安澄がいるということができます。つまり、「お母ちゃんに対しての安澄」、それとは異なるお父ちゃんに対しての「娘としての安澄」。そして、鮎子に対しての「お姉ちゃんとしての安澄」。

それぞれ、安澄は今までと異なる一面を見せます。フラッと帰ってきて平気な顔をしている(ように見える)お父ちゃんに「ムカつく」。「お母ちゃんがどれだけ大変な思いをしたか」を代弁するのです。そして鮎子ともすぐに打ち解け、彼女の手を引き、よく面倒を見ます。「お母ちゃんの前では絶対悲しい顔しない」。いじめられていた頃の彼女には考えられない強さです。

ヒッチハイカーの拓海くん(松坂桃李)、そして実の母である酒巻君江(篠原ゆき子)と、様々な人との人間関係が増えていき、それに伴って安澄という人を切り取ったときの側面がひとつ・またひとつと増えていきます。これが「社会化」であり、「成長」です。この映画では、安澄のみならず多くの「1対1」がしっかりと描かれて、人物像がどんどん立体化していきます。「人」が描かれているというのは、つまりこういうことです。


過不足のない演出

映画や小説などの物語描写におけるよくある失敗は、「描くべき(説明すべき)ことを描いていない」とか、逆に「描かれないべきことが描かれている」ということです。これを間違うことは、特に『湯を沸かすほどの熱い愛』のような日常的な映画に対しては大きなダメージとなってしまいます。つまり、観客の共感度がググッと下がってしまうのです。

この点で、『湯を沸かすほどの熱い愛』はかなり大胆な取捨選択をしていて、しかもそれが適切に働いています。物語の中では重大事といえる出来事が直接描かれない、ということもありました。たとえば、「お母ちゃんの病気について娘たちが知る場面」は直接描かれません。倒れたお母ちゃんが運び込まれた病院で、駆けつけたお父ちゃんに抱きつくところ(グッとくる場面です)までです。また、お母ちゃんが亡くなるところも描かれません。衰弱したお母ちゃんの衝撃的な映像の直後に、すぐお葬式の場面がやってきます。

これらは決定的な場面です。直接描けば存分にドラマチックさを醸し出せるでしょう。でも中野量太監督はそうした誘惑に乗りませんでした。お母ちゃんの病気のことを知った娘たちについては、緩和ケア病棟にお母ちゃんが入院したあとの娘たちの様子をもって描き出すのです。

大好きなお母ちゃんがもう長くない、と知ったときの安澄と鮎子のショックはいかばかりだったか。それを私たちは存分に想像することができます。二人がそこから立ち上がり、すべきことをしようとどのように踏み出したのか。あるいは、お葬式のときの取り乱さず穏やかな、「あたたかくお母ちゃんを見送ってあげよう」という様子。相当な心の準備・覚悟が必要だったはずです。でも二人にはそれができたのです。血の繋がりなどなくても「お母ちゃんの子だから」強いのです。

このことに思い至ったとき、劇場でスクリーンに向かっていた私はついに感極まってしまいました。映画で「泣ける」ってたとえばこういうことでしょう、と思います。そして、ごてごてした演出に強要されるのではなく、観客の想像力が自ずからそこに辿り着いたのは、先述した「人」の描写があったればこそです。


鮎子にとっての「お母ちゃん」とは?

ところで、他にも描写の細かな取捨選択は丁寧になされています。たとえば、沼津で君江と会った安澄が鮎子に連れられて帰ってくるところ。お母ちゃんが車の脇で倒れています。二人は「お母ちゃん、お母ちゃん!」と呼びかけます。重要なのは、おそらくこの場面が、鮎子が初めて双葉を「お母ちゃん」と呼んだ場面だということです。この様子は車越しにというか、車の下の隙間から映し出されていて、二人の姿は見えません。その表情は、特に鮎子の表情は、やはり私達が想像すべきところです。

あの「朝からしゃぶしゃぶ」の場面を経て、お母ちゃんの愛情を自分も安心して受けられるのだとわかった後でも、鮎子には当然引け目がありました。安澄と違って自分はお母ちゃんの本当の娘ではない、という気持ちです。拓海くんが悪気なく「あのお母さんから産まれた君たちが羨ましいよ」と言ったとき、彼女はうつむいてしまいました。

ところがあの沼津の場面、車の中で、お母ちゃんは安澄に対して出生の秘密を語ります。安澄もまた、お母ちゃんから産まれた子ではなかったのです。この場面ではお母ちゃんと安澄の表情ばかりが映し出されますが、鮎子もその狭い空間に一緒にいます。お母ちゃんは鮎子にもそれを聞かせているのです。でも、鮎子の表情は映し出されません。彼女の表情はその直後、窓越しに安澄を見つめるところでのみ、凝縮された形で映し出されます。あの小さな女の子が流す涙にこれほどの深みが表現されるとは。伊東蒼さん、恐ろしい子役、というか女優さんです。

安澄と鮎子が「二人で」一緒に「お母ちゃん、お母ちゃん!」と叫ぶシーンの背後には、そうした細かな積み重ねがあったのですね。


お母ちゃんはすぐに亡くなったのではなかった?

もう一つ。はっきりとは描かれませんが、実はお母ちゃんは亡くなるまでの間、2カ月を遥かに越える時間にわたって頑張っていたのではないか、ということがあります。というのも、前半に君江からタカアシガニが贈られてきたのは4月。鮎子の誕生日が5月です。この後安澄の制服に注目すると、一度冬服になり、そしてお葬式の場面では夏服でした。つまりそれだけ季節が巡っているのです。

その時間は二人の娘のためにお母ちゃんがくれた最後のプレゼントであり、あるいはお父ちゃんのプレゼントの後にお母ちゃんが痛切に漏らした「死にたくない」という気持ちの、強い現れだったのかもしれません。


お母ちゃんもけっこうむちゃくちゃだった

さらにこの映画のいいところを挙げるならば、それは「お母ちゃんだって完璧じゃない」ということです。いつも強く明るく、周りの誰もを明るくさせ、それでいて思慮深く、ときに厳しく、だけど常に優しくというイメージのお母ちゃん。でもけっこうむちゃくちゃなところがあります。それもきっちり描かれているところが良いのです。

とにかく印象的なのは、彼女の色「赤」のイメージの通り、すぐにカッとなるところです。とにかく表現が激しく、直截的です。家族を置いてフラッといなくなった夫に再会したら、そりゃあ怒りも湧くでしょう。でも素早くお玉を奪い取り、きっちりお玉の「丸くないほう」で夫の頭を殴りつけるあたりはなかなかのバイオレンス。旅の途中で出会った甘っちょろくて煮え切らない青年・拓海くんにダメ出しをする際も、「サイテーな奴」とグッサリ一撃。もちろんその後に優しい激励がくるあたりもお母ちゃん、なのですが(「いきなりハグ」もけっこう極端)。それから、君江に対する突然のビンタも印象的でしたね。

安澄に対して「いじめに立ち向かえ」というあたりもなかなか過激です。特に近年、社会的ないじめ問題に対して「逃げてもいい、いじめをするような連中に付き合って自分をすり減らし追い詰めることはない」という意見が多く聞かれますから(私も基本的に賛成です)、ここだけ切り取ってみれば議論を呼ぶところかもしれません。ただ、お母ちゃんの場合はもし安澄が勇気を出して戦った結果傷ついて帰ってきても、両手を広げて待っていてくれます。そういうセーフティネットがない場合は(家庭環境も劣悪とか)いじめから逃げることも考えるべきだし、ということですね。

それから、印象的だったのはお母ちゃんが自分の母親(りりィ)に会いに行く場面。彼女もまた、鮎子と同じような「母に捨てられる」という経験をしていたのです。探偵づてに「そんな娘はいない」と聞かされる場面は胸を締めつけます。泣き崩れたりせず、陶器の人形を窓ガラスに投げつけてしまうお母ちゃんはいかにもお母ちゃんという感じで、探偵のコミカルな慌てぶりも手伝って泣き笑いのような感じになるのですが、それにしても。まるで「血なんてつながっていなくても安澄と鮎子はお母ちゃんの子ども」ということの裏返しみたいで、とても残酷な場面です。


ダメな、あるいはユルい男性陣の面々の役割

この映画は、「女たちの映画」といっても過言ではありません。この世に生をうけた一人の女の子が、どのように強い大人の女性に、そして母になっていくかということが、各年代の女性によって描かれます。お母ちゃん、安澄、鮎子。一度は母であることから逃げてしまった君江。そして、まだ「死」ということがわからない年齢の探偵の娘も。

そんな中で欠かせなかったのが、ダメだったりユルかったりする男性陣です。ヘラヘラとして頼りなく、常識もデリカシーもなく、女癖も悪く、情けないお父ちゃん。それでもどこか憎めないのが凄いところです。近年の日本の俳優には「憎めない・憎みづらいクズ」を演じるのが上手い俳優がけっこう多い気がしますが、なかでもオダギリジョーは優れていますね。やることなすこと最低なことばかりなのに、それを責められたときの申し訳なさそうな、情けなくてまるで悪意を感じられない眼差しになんとなくほだされてしまう。あの不器用な人間ピラミッドは、そんなお父ちゃんが心を入れ変えた(のか?)決意そのものでした。

ユルい雰囲氣を醸し出して作品世界をほっとさせてくれる探偵や拓海くんの存在も、じんわりと効いていました。こうした家族外の人々との繋がりもまた、お母ちゃんが(意図せずにであれ)残してくれたものです。他人にも分け隔てなくお母ちゃんが注いだ自然な愛情が(探偵の娘に対して、将来に悩む拓海に対して)、残された家族にとっての支えとなってくれるあたたかな存在として戻ってきたのです。

特に、住み込みで働くようになった拓海くんのような「お兄ちゃん」の存在は、姉妹にとって大きなものでしょう。近い将来、もしかして安澄は彼に恋心を抱くようになったりするのかな、そうなるのも素敵だな、などと想像してしまいます。もちろん、そんなことは描かれず、示唆もされませんが。


ラストの場面、あれはどういう意味なのか?

さて、問題は最後の場面です。それまでさめざめと涙を流していたところで、呆気にとられてしまった方も多いかもしれません。全部良かったのだけど、あそこだけうまく受け入れられないという方もいらっしゃるでしょう。そのままノイジーなギターがジャーン、映画によくフィットした名曲・きのこ帝国『愛のゆくえ』です。そしてタイトルバック、ダイナミックな『湯を沸かすほどの熱い愛』の文字ドーン。えっ、えっ? と思っているうちに映画は終わっていきます。

すなわち「え、お母ちゃん(の遺体)燃やしちゃうの、そこで?」ということですね。『湯を沸かすほどの熱い愛』というのはお母ちゃんの愛情の深さの喩えかと思っていたら、それもそうなのですが、最後に本当に物理的に湯を沸かしてしまうのです。そのお湯(お母ちゃんの愛)で温まる、家族の面々。のんびりお湯につかってるけどいいのかそれ、という。

特別な出来事・ショッキングな出来事であれ、キャラクターが極端であれ、基本的に誰の人生にも起こりうるような出来事だけを描いてきたこの映画が、最後の最後に一度だけ決定的に「普通じゃない」ことを描くのがあのラストシーンです。確かにこれは「天国に行った後でも、お母ちゃんの愛情はみんなを温めてくれる」ことの表現としてとらえることができます。でもそれだけではありません。やってることが過激すぎます。どうとらえればいいのか難しい場面ですし、「唯一の正解」のような解釈もできません。

ただ個人的には、あの場面はまさに「火をつける」役割を果たしてくれたように思います。「涙を誘う物語を鑑賞して、しみじみと感動を胸に映画館を後にする」というのもよいことです。でもこの映画はそれだけでは帰してくれません。その感動の気持ちに火をつけて、燃料にして歩いていけ、と背中を叩いてくるのです。お母ちゃんが安澄に、拓海にハッパをかけたように。

映画の制作者は、「鑑賞後、観客がどんな気持ちを胸に映画館を出て欲しいか」を常に考えるものです。鑑賞前と後で、景色の見え方がどう変わって欲しいか。あるいは、人生についての姿勢や考え方が、ほんの少しであれどのように変わって欲しいか。中野監督はじめこの映画の制作者は、観客に対してただただ「いい話だったな」と心の中に仕舞っておくということを求めなかったのでしょう。あの過激なラストは「その感動を燃やして、人生の力に変えてくれ」というメッセージだったのではないでしょうか。この感じ方は人それぞれでしょうが、私はそんな風に受け止めました。

それから、言うまでもなくというところですが、煙突から立ち上る煙に赤い色がついている描写は黒澤明監督『天国と地獄』(1963)へのオマージュでしょうね。


蛇足(その他の下世話な話)


この映画、おいしそうな食事シーンが幾つも出てきましたね。タカアシガニもしゃぶしゃぶも、甲乙つけがたいところです。でもやっぱり「誕生日には朝からしゃぶしゃぶ」かな。つまり、安澄がお母ちゃんから誕生していないこともあって、そのぶん誕生日にはなんとか祝祭的な出来事を、という「幸野家のルール」なのでしょう。愛情です。愛は湯を沸かすのです。だからあそこは断固しゃぶしゃぶ、すき焼きではいけなかったのです。牛肉をしゃーぶしゃーぶ、みんなで食べるとおいしいね、ということで今回のベスト食事シーンは「朝からしゃぶしゃぶ」。

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